青空が落ちてくる。

are you thinking? われらはシンクタンク『世界征服倶楽部』

雨のち曇り。

ユニーで寿がきやの和風とんこつラーメン生を買った。チャーシューと煮たまごも合わせて。


『ロックは人類のために存在し続けなければならない。そう思うのだ。』
ロックがノスタルジーに陥りつつある昨今、ロックの機能低下は社会に影響を及ぼしていないだろうか。ロック、特にハードロック、オルタナティブロックといわれる分野のロックは、明らかに聴くものにカタルシスを与えるために存在していたといっていいだろう。その機能とともにそれを選ぶということが特権と思わせる勢いがあった。そういったジャンルの音楽さえもノスタルジーになってしまっている。
正直、オタクといわれる人種が集う文化、マンガ、アニメ、ゲームがロックの代わりになるとは思えないのだ。わたしはマンガを読むし、アニメも観る。ゲームは苦手だけど。嫌いじゃない、気に入ってメディアを集めたアニメもある。それでもその中で、最高のロックと同じくらいのカタルシスを得られたものがあるかというとどうかと思う。マンガ、アニメ、ゲームにはストーリーから離れられないものが多いように感じる。ロックにもそのような要素がなくはないが、表現形態はさまざまだが、基本的に衝動であるということが今のサブカルチャーとは根本的に異なっている気がする。
秋葉原の事件で社会システムの云々が云われているが、そんな刷毛口のない文化というのはないのだろうか。携帯の画面に向かうよりも、ライブハウスでダイブするくらいはかわいいものなのに、切羽詰った人間には人前でおどけて見せる場所も残されていないということなのか。単に、彼がそれを見つけられなかったということなのか。
ロックはかつて、60年代から80年代まで世界の文化のメインストリームだったと言っていいだろう。あらゆるアーティストがロックを無視することができなかった。ロックは音楽だけじゃない、ロックになろうとする画家だっていた。90年代に入って、ゲームとインターネットに魂を吸い取られるように、サウンドトラックという型に納まるようになってしまった。
最近のロックはムードミュージックのように聞こえてしまって、どきどき耳にするジョニー・ロットンやジョー・ストラマーの声に、魂を揺さぶられるようなフィードバックを感じるのは終わりつつある現実を感じていることなのかもしれない。
芸術には破壊、破壊衝動を自分自身に変える力がある。それはある意味、人間の野生のカタルシスへの変換なのかもしれない。それが文化というもので、社会が殺伐といくという現象は、文化をないがしろにして野生に帰っていっているという現象かもしれない。それでも、野生を失った人間がいまさら野生に戻れるとも思えない。放置を黙認するか、そのような現状を認知して管理社会を強化するか改めて管理するか考えどころなのかもしれない。
映画『猿の惑星』シリーズを思い出す。あの映画は優れた映画だったが、そこに秘められたメッセージは映画よりも優れているのかもしれない。猿の掟「猿は猿を殺さない」の猿を人間に置き換えればいい。日本の社会システムは、共産主義に向いていると思う。今までがゆがんでいたのだと思えば。江戸幕府の時代、今で言えば一党独裁のようでもあったわけでしょう。


話変わりますが、没後60年で盛り上がってる?太宰だって、今だったら計画殺人で何人殺したんだって感じじゃないのかな。本人も逝っているんで書類送検不起訴みたいな終わりなんでしょうか。
でも、太宰治もロックです。猪瀬直樹の『ピカレスク』を読んでみよう。