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徳川慶喜の「気迫」記す史料発見 茶碗5杯の酒あおり親王を一喝…

2011.5.29 11:12



 茶碗(ちゃわん)5杯の酒をあおって宮家に乗り込み、茶を出されかけると「自分で買って飲む」とぴしゃり−。幕末の動乱期、将軍になる前の徳川慶喜(よしのぶ)の気迫あふれる駆け引きの様子を記した記録が高知県の歴史家らの調査で見つかった。



 1864年に京都で、朝廷や幕府などが出席した会談の様子などを記述。同じ内容の記録は他にもあるが、史料を調査した青山文庫(高知県佐川町)の松岡司名誉館長は「幕末維新史の一場面が劇画のように記され面白い。理想肌で一本気な政治家、慶喜の姿が垣間見える」と評価している。



 土佐藩士、樋口真吉の雑記の中の一節で、樋口が親交のあった志士、中岡慎太郎の書状から写したとみられる。



 攘夷論をめぐり、天皇側近の朝彦親王が前日の会談での発言を撤回していることを知った26歳の慶喜が「茶椀ニテ五杯ホド引カケ直ニ早馬ニテ」親王邸に刀を持って乗り込んだと記述。あいさつ抜きで「御一命ヲ頂戴仕私モ身ノ覚悟」と脅しながら、あやふやな政治姿勢を追及する様子が記されている。



 将軍の補佐役だった慶喜は当時、幕府の立て直しのため、外交や国の在り方をめぐり朝廷や有力諸藩などとの折衝に奔走していた。茶を出させようとした親王を「今日ハ茶ヲ呑ニハ参ラズ」とはねつけ、「私ハ十万石頂戴仕テ居マスカラ茶ハドウカコウカ買テ呑候」と一喝したとの一文もある。



 慶喜の気迫にうろたえた親王が顔色を変え、雨のように汗を流したとも記していた。


茶わん酒あおり早馬駆り・・・徳川慶喜の「怒り」伝える手紙



 江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(1837〜1913)が、将軍になる前の1864年、攘夷<じょうい>に対して曖昧な態度を示す朝廷側の実力者を恫喝<どうかつ>した様子を記した手紙の写しが、高知県内で見つかった。慶喜は当時26歳。酒をあおって実力者の屋敷に乗り込み、刺し違えも辞さない覚悟で真意をただした場面を描写。研究者は「混迷の幕末で、辣腕<らつわん>を振るう若き慶喜の姿が見てとれる」と評価する。



 京都にいた慶喜と国事をあずかっていた中川宮朝彦親王(1824〜91)の面談に関する内容で、土佐藩士・樋口真吉が、雑記帳に書き写していた。記述から、原本は樋口と親しい土佐の志士・中岡慎太郎が長州の浪士に送った手紙。手紙は残っていないが、雑記帳は樋口の子孫宅で見つかった。



 記述では、慶喜1864年2月15日、幕政に協力する薩摩藩島津久光ら諸侯3人と、中川宮邸を訪問。横浜から外国船を追い出す「断然たる鎖港攘夷」をただすと、宮は同意した。



 しかし翌日、慶喜は、同意は「宮の言葉の行き違いだったようだ」と聞かされて激怒。「酒ヲ(中略)茶椀<ちゃわん>ニテ五杯ホド引カケ直ニ早馬ニテ尹ノ宮<いんのみや>ヱ乗切リ行キ」(酒を5杯ほど引っかけ、馬で乗りつけ)、刀を手に持ったまま宮邸の居間に上がり、同意がうそなら、「一命ヲ頂戴<ちょうだい>仕<つかまつり>私モ身ノ覚悟」(命を頂戴する。私も覚悟の上)と迫った。宮は汗をかいて慌てた。



 宮が側近にお茶を出すように伝えると、慶喜は「私ハ十万石頂戴仕テ居マスカラ茶ハドウカコウカ買テ呑候」(私は十万石を頂いているので茶ぐらいは自分で買って飲む)と、冷たく言い放ったと記している。



 この時の様子は、慶喜側近の書状にも残るが、写しはより詳細。幕府は、朝廷の命を受けて諸侯と国政を進めようとしたが、慶喜は開国派の薩摩藩を警戒し、あえて攘夷で政局を握ろうとしたとされる。慶喜はこの一件を機に朝廷と距離を置き、諸侯との協力も解消。幕府の勢力を盛り返した。



 調査した高知県佐川町立青山<せいざん>文庫の松岡司<まもる>・前館長は「幕末史の一場面がよりリアルになった。現状をひっくり返すために大暴れした慶喜の強引さが、劇画のように描かれて面白い」と評価している。



(2011年5月17日 読売新聞)